1989年3月 東京歯科大学 卒業
1995年3月 東京歯科大学大学院 修了
1995年3月 博士(歯学)の学位受領(東京歯科大学)
1995年4月 東京歯科大学講師(非常勤)
1997年1月 つちや矯正歯科 
2006年6月 スマイルシャイン矯正歯科 






生年月日1964年10月20日(ちなみに皇后陛下の美智子様も10月20日)
福岡生まれ。血液型:O Rh +


福岡県飯塚市で生まれた後、ちょっとだけ湘南育ち、その後自然がたっぷりの信州で育ちました!
 自己紹介では定番の趣味は、子供の頃はオタク的要素を含む、乗り物に関するモノ集め(たとえば、切符やパンフレットに始まり、時刻表、機内食の紙コップ、車のカタログなど)にはじまり、ラジカセ(当時は3年間お年玉を貯めて、買いました!)をもって線路脇に行っては電車の音を録音したり、写真を撮ったりしていました。また、モノを作ることや分解することが大好きで、秋葉原はお宝があふれている街でした!今みたいに変な人種?はいなかったし、当時は健全だったと思います。
 冬のスキーは大好きで、母親におにぎりを作ってもらって、友達と電車に乗ってよく行っていました!腕前は中の上か、上の下といった感じでしょうか?
 初めて買ったレコードはアグネス・チャンの「ひなげしの花」。ドラマは百恵ちゃんの「赤い疑惑」にはまっていました!ちなみに飛行機が大好きだったので、田宮二郎の「白い滑走路」も見ていました!
 中学ではアマチュア無線の免許を取り、覚え立ての片言の英語で、知らない外国の人とお話しするのが好きでした!スポーツは背が小さいからバスケットにトライするも、下心がバスケットの神様に見透かされたのか、背中を打って整形外科に行ったとき、「背骨の間隔が狭いから、あまり背は伸びないねぇ!!」と言われて、初めて人生において挫折を味わいました!そこで担任が顧問だった吹奏楽部に入り、トランペットを吹いていました。そのころはスイングガールズのように、軽快な曲を勝手に演奏?していました。2年生になったら、顧問が変わり、まるで体育会のような部活になっていました。朝夕のランニング、腹筋に腕立て伏せ、体力がないと楽器は吹けない!文化系でありながら運動ばかりでした。走ることは元々好きだったので、特に嫌ということはなかったのですが・・・。ただ、中学の2年3年と世間から隔離していました。というより、隔離されていたと言った方が正しいかもしれません。それは、顧問からテレビは見てはいけない、音楽はクラシック以外聴いてはいけない、メディアはNHK-FMしか聴いてはいけない、という命令が出たからです!大好きだった久米宏と黒柳徹子のザ・ベストテンも見られなくなってしまうなんて!と思いましたが、素直だったのでそれに従いました。例え家族がテレビを見ていても、自分は背中を向けてかたくなに見ませんでした。我ながらよく言えば従順な少年だったと思います。
 マスコミから離れると、世間との距離が長くなり高校に入ったときには、そんなことも知らないの?と言われることはしばしばでした。松田聖子ってだれ?トシちゃんって何?なんてきいたら、本当に知らないの?って聞き返されることは当たり前でした。好奇心旺盛な私は、松田聖子というアイドルの存在を知り、とうとうそれにはまってしまうのでした!デビュー曲「裸足の季節」はCMソングとして流れていたこと、爆発的に売れた「青い珊瑚礁」で人気を不動の地位に築いたこと、当時世間の女性からは評判が良くなかったことなどを調べていくうちに、アイドル松田聖子の存在無くしていられない状態になっていたのでした!基本的に収集癖のある私は、シングルやアルバムは全部集め、もちろん、コンサートにも足を運び、高校でも続けていた吹奏楽の演奏会には、必ず松田聖子の曲はプログラムに含めるという、聖子ファンならではの行動に出ていました。未だに彼女のファンであります!


 高校の頃は、吹奏楽にどっぷりはまり、コンクールでも地区代表に選ばれるようになり、3年生の頃は悲願の全国大会出場を果たしました!このころOBたちは、今年の3年生は全員浪人だな!と言っていましたが、同級生のほとんどは、慶応、早稲田などの有名私立や筑波、広島などの国立大学に合格して、部活で養った短期集中力を発揮して、卒業していきました。私も東京歯科大学に合格したとき、担任に報告の電話を入れたとき、「先生、受かりました!」と私、「どこーっ???」と担任。内申書を書くからどこを受けたかはわかるでしょと思いましたが、予想外の結果に担任も驚いていました。
 実はこの担任の先生に出会わなかったら、今頃は歯医者にはならずに何をしていたかわかりません。この先生、京都大学の哲学を出ているちょっと変わった?先生で、模試なんて受けたい人が受ければ良いんです。3者面談はやりたい人がやれば良いんです。という、今だったら父兄から何か言われそうな感じですが、当時はそれで良かった時代だったんです。この先生と進路について話していたときに、将来何になりたいかときかれました。飛行機が大好きだった私は迷わず管制官になりたい!と言いました!本当はパイロットになりたかったのですが、目が悪いために断念せざるを得なかったから、空港関係の仕事に就くのが夢でした。管制官なら一日中飛行機を見ていられるという安易な発想でした。担任はそれ以外に何かないか?としつこくきくものですから、音楽大学に入って、いつかウィーンフィルのメンバーになりたい!と言ったら、趣味を職業にすると大変だから、趣味はそれだけにとどめておいた方が良いと言いました。それより、「いつか俺の入れ歯を作ってくれよ!」というものですから、私は、この担任の先生を尊敬していましたので、この一言で祖父や父のように歯科医師になることを決めました!今思うとなんてあっさり変えてしまうんだろうと思う反面、人生の岐路に立たされた時に、出会う人によって人生は大きく変わるんだなぁと、実感しました。私が歯科大を受けるきっかけになったのは、この担任の先生の入れ歯を作ることが使命だったからです!結果的には入れ歯を作る歯医者にはならなかったのですが・・・。先生、ごめんなさい。


 大学に入学してから、楽しい学園生活なんてのはあり得ませんでした。朝から夕方まで毎日講義があり、テレビに出てくる大学生たちとは全く違った学生生活でした。あこがれだったサークル活動や、他の大学との文化交流なんてあり得ませんでした。それと私が入学する1年前にキャンパス移転により、水道橋から、千葉市稲毛に移ってしまいました。当時千葉には東京と名前が付いているものといえば、東京ディズニーランド(入学後に開園)、新東京国際空港(当時)、東京歯科大学でした!当時は京葉線も無く、周りは公団住宅の団地群で、何もないところでした。
 講義は最初の頃は高校の延長で数学や物理、ドイツ語、英語などの教養科目がほとんどで、たまに歯学概論という、大学の歴史と歯科とはどういうものかを学ぶ講義がありました。東京歯科大学は日本最古の歯科大学で、当時は高山歯科医学院と言いました。まず、習うことは「歯科医師である前に人間であれ!」という教えでした。この言葉は大好きです。人間を忘れたら医療はできないと思いますから。最近は悪徳歯医者といわれる人もいますが、それはごく一部の人が目立つからであり、同業者としては悲しいです!
 2年生になると解剖学が入り、専門的な講義が少しずつ入ってきて、実習も行います。
 大学のキャンパス内に口から銀色の棒が出ていて、それを首の後ろにヘアーバンドみたいなものをつけて歩いている人を見かけました。あー、この人は骨折でもしたんだろうなぁくらいに思っていましたが、後にそれがヘッドギアという矯正装置だったことがわかりました。私と矯正との関わりはこれが最初だったと思います。
 大学5年生の文化祭では、矯正歯科をテーマにして一般の人に矯正治療はどういうものであるかを発表して、大変充実した文化祭だったことを覚えています。後輩たちとみんなで発表準備をして、とても楽しく発表できたことが良き思い出です。
 5年の後期から6年の前期までの約1年間は臨床実習で各科を順番に廻ります。歯科の科目には大きく分けて、保存科(主に歯周病や虫歯の治療や根っこの治療を行うところ)、補綴科(ほてつかと読みますが、入れ歯やブリッジを作るところ)、口腔外科(炎症や腫瘍、外傷、抜歯、入院して手術を行うところ)の3つの主要科目と放射線科、小児歯科、矯正歯科があります。それぞれの科を廻って、症例を見学したり、モノを作ったり、処置をしたりというノルマみたいなものがあり、オールマイティーに学びます。実際の臨床を見ながら、将来どの科に残るかを決めていきます。
 私が矯正歯科を選んだ理由は、もともと矯正歯科は、学生レベルの勉強では臨床で役に立たないことがわかったからと、高校の時に同級生でトランペット仲間の友達がいて、彼はとても上手に演奏するのですが、さんまちゃんのように出っ歯なんです。それで、どうしてもマウスピースを唇に当てるときに無理が生じてしまうのです。そのままでも十分うまいのですが、出っ歯を改善して口元を治したらもっともっときれいな音が出るんじゃないかと思いました。それがきっかけで、矯正歯科に残ることに決めました。


 矯正歯科に残るためには、まず主任教授にその意志を伝えに行かなければなりません。私が残る前の年までは、教授に挨拶に行ったもん順で残ることができました。ところが、私の学年はなぜか矯正歯科に残ろうとするものが多く、過去の伝統であった順番という制度が見事に崩れ去り、成績順で残すことになってしまったのです。卒業試験の成績でそれが決まり、何とか無事に残ることが可能になりました。
 矯正歯科の研修課程に残った仲間は12名でした。私たちは第15期生で、近年まれに見る個性派の集団でした。でも「同じ釜の飯」の仲間でもあり、現在でも学会の度に会っては、当時のままの自分たちだと実感します。
 東京歯科大学矯正学教室の卒後研修課程は、日本で初めて矯正の専門医を養成するプライベートな機関として、設けられました。大学から認められたコースではなく、当時の助手や講師が私費で渡米し、向こうで矯正のコースを受講され、そこで得た技術や知識を医局に戻ってから後輩たちに教えるということをしてきました。この教えてくれる先生方は大学からそのために給料が支給されるわけではなく、あくまでもプライベートに後輩たちの面倒を見てくれていたわけです。矯正の事は学生時代で教わることは、国家試験に受かる程度の簡単なことや今では使われない装置のことなどがほとんどで、実際の臨床でやっていくためには専門的な教育を受けないとやっていけません。このようなコースは当時日本では他にやっているところが無く、他の大学からこのコースのために順番待ちして入る先生や韓国や中国などからも留学先としてこのコースを選ぶ先生もたくさんいました。先輩の先生のレクチャーや実習は、当然診療後になりますから、夜遅くまでやっていました。終わるのは毎日午前様です!私は医局に残った当時の体重は48kgだったのですが、このような生活をしていると夜中はお腹が空くので毎日ラーメン屋さんに通う日が続き、6年間居た医局を去る頃には62kgまで成長してしまいました。
 辛くもありそれがまた楽しかった医局時代は本当に良い経験をさせて頂きました。私はこのコースの第15期生としていたことを今でも誇りに思っております。


 今、私を含めて同期の年代は、色々な会で重要な役割を仰せつかっております。現在私が所属する会の中で、いちばん身近で日々の臨床にも関係ある会は日本臨床矯正歯科医会です。この会は矯正歯科専従の開業医の団体です。安心してかかれる矯正歯科は患者さんの願いでもあります。矯正は期間も長く、特殊な治療です。矯正は矯正歯科で、これはごく自然なことだと思います。お腹が痛くて眼科に行くでしょうか?ほとんどの方は行かないと思います。矯正歯科を単科標榜しているところは、ほとんどの先生が大学の医局に残って研鑽していた先生ばかりです。ご存じのように街中には歯科、小児歯科、矯正歯科、口腔外科という標榜があふれています。この4つは法的に認められた標榜です。つまり、歯科医師免許を持っていれば誰でもこの4つの標榜に関しては何ら違法ではないという現実があります。審美歯科、インプラントは標榜としては許されていない(つまり違法)看板が、街中にはあります。患者さんの立場に立って考えれば、違法な標榜はいけないと言うよりは、そのようなニーズがあるのだから標榜ができるように働きかけるべきであり、患者さんもそこでは何をしているのかがわかるのだから、そうすべきであると考えます。しかし、標榜しているからには、その科目はきちんと診療しないといけないと思います。私たち矯正歯科専従開業医は矯正歯科に特化したいわゆる矯正のスペシャリストです。スペシャリストは自分の範囲でないモノはその道のスペシャリストに委ねます。そうしてその患者さんにとって最高の歯科医療を提供していきます。それが患者さんのためでもありますから!


 欧米諸国の先進国のように、この国で矯正治療が当たり前になる日が早く来ることを願っています。矯正をすることで人生が変わり、幸せになれると言っても過言ではないと思います。おいしいものをおいしく食べる、歯を見せて笑える、そんな当たり前のことができるよう、私は願っています。





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